大伴氏と繋がった火君

  大和の豪族大伴氏と結びついた火君              

            

      

                                                                                                             筆者撮影 

                                        八代外港(対岸は天草諸島

 


        大和の豪族大伴氏と結びついた火君

  火の君はどのようにして中央豪族と結びついたのであろうか。その事を知るため馬門石石棺が納められた古墳の所在地と、その地を本願とする豪族を一覧表にしてみた。その結果が下表のように、大和盆地で最も多くの馬門石石棺が納められたいたのは、大伴氏の勢力圏内に存在する古墳であった。以下、その事について考えてみよう。

1.馬門石石棺が納められた古墳とその所在地図

  図説日本史(機内豪族の分布)より

    

※ 各豪族の勢力範囲については諸説があり定かでなく、被葬者の豪族氏は古墳が存在する現在の地域名から判断する。

 ※ 市野山古墳は允恭大王(5世紀中頃)陵とされ、その陪冢の長持山古墳と唐櫃山古墳  とは半世紀の年代差がある。また長持山古墳出土の2基の石棺には年代差がある。  
※ 大阪峯ヶ塚古墳は木梨軽皇子陵との伝承あり。
※  収蔵庫の下置かれている奈良金屋ミロク谷石棺は、馬門石製の家形石棺の蓋石に石仏を彫り込んだもので、出土古墳は不明であるが三輪山周辺から出土したようである。

 2.馬門石石棺の移動先はどこか  

 以上の付帯事項を考慮し、一覧表から大和盆地における、それぞれの地名から豪族名を判断すると、天理市物部氏桜井市が大伴氏、奈良市が和珥氏(わに)氏の勢力範囲ということになる。そして、この中で最も多くの馬門石石棺を有するのが、桜井市の4基と大伴氏の領有地である。この他に奈良の和珥氏と天理市物部氏が1基ずつと続く。

 この他に大王家の墓域である、大阪府羽曳野市藤井寺市からも、古市古墳群に属し大王家に繋がる陪冢にも3基の馬門石石棺が納められている。これらは大王家に次ぐ有力者のものであるが、それが一体何者かというと現段階では不明であり、表記として大王家にとどめた。以上のことから馬門石石棺は主に4基の古墳を有する、大伴氏の陵墓を中心に運ばれていたことが分かる。

 そして、これら馬門石石棺が大和盆地東岸に当たる地域に運ばれた時期は、主に継体大王が活躍した5世紀後半~6世紀始めである。継体大王はそれまでの王朝と異なり、新たに北陸地方からやってきて即位した新王朝であり、このような新たな継体大王の出現は、それまで大王家に王妃を入内していた葛城氏をはじめ、前王朝を支えていた有力豪族にとっても受け入れ難いものであった。

 そのため継体大王は即位してから20年もの間、大和盆地に入ることができなかったのは、この様な反対勢力が存在した事によるものと考えられている。このような事情から、上記の豪族の分布図が示すように、反継体派とみられる大和盆地の西側を本拠地とする豪族の領域には、馬門石による石棺を有する古墳は見られない。その主な豪族として平群氏、葛城氏、蘇我氏、といった渡来系豪族であった。

 なお1世紀遅れて(7世紀前半)蘇我氏の本拠地(橿原)に築かれた植山古墳の馬門石石棺は、それまでの大伴氏全盛時代の政治的な動きとは関係なく、推古天皇の諱(いみな)である「額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)」から、『額田部』といった「部称」の付く地域は、皇子女の宮に奉仕するため全国各地に設定された。肥後の額田部(宇土半島の大宅郷)もその一つで、そのため我が子(竹田皇子)の石棺に、馬門石石棺を取り寄せ、日本書紀によると彼女は竹田皇子の墓に合葬するように遺詔したという。この記事からも植山古墳が推古天皇の初陵であることが判明したのである。

         筆者作成                 髙木恭二氏の講演冊子

                

         額田部郷の範囲               馬門石製家形石棺(植山古墳東石室)

3.大伴氏に届けられた馬門石石棺                              

 このような6世紀初めの継体朝における馬門石石棺は、新たな王朝と各豪族との関係を示す指標ともいえるものである。その中でも大和盆地の古墳のなかで、最も阿蘇ピンク石による石棺が多いのは大伴氏の4基であり、次に大伴氏と関係のあった豪族であろう。大伴氏は古代の有力豪族で、雄略から欽明大王初期頃(5世紀後半~6世紀前半)にかけ、この時期最も活躍した、大和政権のトップランナーであった。

 この時期、大伴金村は歴代天皇に仕え、大伴氏の一時代を築いた権力者である。最高の官職である大連(おおむらじ)として、継体天皇の磐余玉穂宮のある磯城・磐余地方(現在の奈良県桜井市)を本拠地とし、大和平野南東部を物部と共に大王家を守るように配置されていた。

 この様な大伴氏と火の君は、石棺の数から分かるように、両者は繋がっていたのである。遙々海路で運んできた多くの馬門石石棺は、大伴氏の古墳に納められ、火の君との関係の強さを物語るものでもあり、この関係が後に筑紫磐井戦争において火の君を救うことになるのである。
 この他に馬門石石棺を有する古墳として、大王家の墓域である古市古墳群内の市野山古墳(允恭大王(5世紀中頃))の陪冢である、長持山古墳と唐櫃山古墳が存在する。この古墳の被葬者は大王の次に続く有力者であり、この時期火君は倍塚に葬られた有力者とも繋がっていたと考えられる。しかし大和における馬門石石棺の出現は、5世紀後半の古墳からであり半世紀のずれを生じる。

 また、阿蘇ピンク石(馬門石)石棺を有する桜井市の兜塚古墳は、全長50mの前方後円墳である。この馬門石石棺の使用は、葛城氏の没落に伴い新たに大伴氏や物部氏が台頭してくると、それまでの竜山石から、それに代わって新たに馬門石石棺が使用されるようになる。この事から、兜山古墳も大伴氏のものとみてよいであろう。 

          奈良・桜井の歴史と社会より(二枚とも)

           

      馬門石石棺(兜塚古墳)       今城塚古墳の石棺の一部

                            (阿蘇ピンク石)

4.大伴氏以外の馬門石石棺             

 また大和盆地以外では、滋賀県野洲市にある滋賀甲山古墳(円墳)と滋賀円山古墳(円墳)は、ともに盗掘にあっているものの豪華な副葬品が見つかっており、被葬者が大きな力を持ちこの地域を治めた有力豪族であった。

 またこの地域が継体大王の膝元である事から、古墳の被葬者は、筑紫磐井戦争後、継体大王により新羅に侵略された任那を回復するため、将軍として朝鮮半島へ出兵し渡韓した、近江毛野臣とその一族の関係者が考えられる。しかし、これらの古墳の築造年代が、朝鮮半島への出兵より1世紀遡ることから、そうとも言えず問題が残る。

 近年、今城塚古墳の近くで用水路の石橋として用いられていたが、付近の寺跡に置かれていた長さ110㎝のが石材が、実は阿蘇ピンク石の一部とみられ、今城塚古墳の石棺の一部であることが分かった。それにしても1500年前に築造された古墳の石棺にしては風化も少なく、古墳から取り出されたのが比較的新しい、今城塚古墳が砦として使われた時期であった事が考えられる。

 そして、和珥氏(わに)氏の勢力範囲である、奈良市の奈良野神古墳にも馬門石石棺を副葬しており、和珥氏の場合、後世の蘇我氏藤原氏の様に、皇家と婚姻関係を結んで勢力の拡大を画策する事を目的とする先駆者である。応神天皇から敏達天皇まで7人の天皇に9人の后妃(こうひ)を入れ、葛城氏と共に古代大和政権の二大姻族であり、継体大王とも深い関係にあった。

 また東乗鞍古墳は天理市にあり、ここには物部氏氏神であり、大和朝廷の武器庫であった石上(いしのかみ)神宮が鎮座する。あの有名な七支刀(国宝)が伝わる、日本最古の神宮である。従って、東乗鞍古墳の被葬者も物部氏に関する人物と考えられ、6世紀前半に築造された、全長約75メートルの前方後円墳の横穴式石室には、馬門石石棺と二上山凝灰岩製の石棺1基づつが納められていた。

 問題は、何故物部氏の古墳に馬門石石棺が入っているかであが、いろんなストーリーが考えられる。墓制というものは急に変化するものではなく、そのため最初に古墳に収められたのが二上山白石であるとすると、それまでの伝統を踏まえた石材による石棺か用いられた。その後、葛木氏の衰退に伴い新たな大伴・物部体制に入ると、使用される石棺も新たに馬門石石棺が使用されるようになった。

 このような石室内の複数による石棺の使用は、継体大王の今城塚古墳にも見られ、大王と豪族あるいは豪族間のどうし関係により、使用される石材に変化を生じるようになった。

             googlemapsより

         

         今城塚古墳         甲山古墳(馬門石石棺)
5.吉備を介して中央豪族と繋がった火の君

  当時は現在のような八代平野は存在せず、従って農業生産にその源を求めることはでず、馬門石製の石棺を大和に海上輸送するなど、海洋交易を生業する海運力が火君にとっての力の根源であった。
  なかでも大王の石棺ともいえる7トンもの馬門石による石棺を、海路遙々大和まで移動させるには、海人族である火の君ならではの操船力が求められ、その姿は瀬戸内航路において人々の目に止まり長く記憶に残ったであろう。その事が播磨風土記の地名説話に、火の君が記される事に繋がったのではなかろうか。
 このような大和との関係は、当時強力な軍船を有する吉備(備中)を介して可能であった。この事を示すものとして、全国4位の墳丘を誇る、岡山市北区の造山古墳(五世紀前半・全長350m)前方部の馬門石石棺や、その陪冢である千足古墳の石室である。
 その石室には肥後型と呼ばれる天草産砂岩による石障(仕切り石)が用いられ、不思議なことにこの陪冢と同じ、千足島(維和島)の名をもち良質な板状のな砂岩を産出する島が、八代市の対岸に存在する。このような共通した墓制は、吉備と火国の間に強い結びつきがあった事を示すものである。
 また宇城市不知火町には、鴨籠古墳(かもここふん)と呼ばれる、巨大な板状の砂岩4枚を組み合わせた長方形石室が遺されている。このような石室は、火国を始めとした中九州や南九州には見られず、九州以外の地域の墓制であるとが考えられている。
 そして、この古墳名に関する伝承として、古墳名の鴨籠から『鴨の子』とすると、『鴨の子の墳墓』と考えるのである。石室内に残されていた石棺が、子供用である事を考えると説得力があり、その石棺は県下で唯一の馬門石によるものである。想像を豊かにすると、鴨とは吉備の王族で軍船を率いて火国へ遠征し、地元の女性との間にできた子供が亡くなり、その子の墳墓が鴨籠古墳と考えるのである。
 このような吉備との関係は、雄略大王により吉備が勢力を失うと、火の君はこれに替わり直接、大王家ないし大和政権中枢の有力豪族につながりを持つことにが可能になったのである。そして海上輸送した石棺が、大和の古墳内に納められるようになると、火君は大和王権から海上輸送に携わる勲(いさお)として一目置かれる存在となった。

         googlemaps         筆者撮影

                               

    馬門石石棺(造山古墳前方部)      鴨籠古墳

6.大伴氏を後ろ盾とした火の君
 ところで大和盆地において、最も多くの馬門石製石棺が納められた古墳は、掲載した『豪族配置図』から分かるように大伴氏である。そして火の君は大和の有力豪族に中でも特にこの時期、朝廷内で最も活躍した大伴氏と関係が深かったと考えられる。
 では何故、火の君は中央豪族の大伴氏と関係を持つようになったのであろうか。それまで大和を介しての朝鮮半島との交易であったが、5世紀後半になるとそれぞれの豪族が独自の外交を行うようになった。この時期の熊本県の江田船山古墳からも、あの有名な銀象嵌銘のある大刀や、朝鮮半島で製作された威信財など多くの品々が出土している。
 この事から考古学者の中には、これらの半島製の宝物を副葬している古墳の被葬者は、朝鮮半島本国から派遣された、分国の指導者と考える学者もいるくらいである。また日本書紀によると、筑紫の君磐井も新羅からの賄賂により、大和に弓引いた事が記され、筑紫磐井も独自の外交を行っていたのである。
  このような時期に大伴氏は積極的に朝鮮半島に対する外交を推し進め、その際に半島に渡海するための港(津)を把握し、軍事力強化のために諸豪族との関係を強化しする事に力を注いでいた。
 その事が、難波津が『大伴の御津(みつ)』と万葉集に詠われ、外交における主要港を複数支配し、その一環として磐井戦争後(527年)の火国南部地域の葦北が、大伴氏の支配地に置かれる事になったのである。

 即ち、それまで馬門石石棺を通じた大伴氏との関係により、外交上の最前線港である火国南部の葦北の地を大伴氏献上することで、その罪を問われることはなかった。この事は、磐井の子の葛子が、博多湾に近く朝鮮半島との交易上重要拠点である糟屋(福岡県粕屋町周辺)の地を、大和政権に献上することにより助命されたように、この時代にあっては、その罪を対価により補うことができたのである。

 話は変わるが、掲載写真の帝塚山古墳は、全長88mの前方後円墳、築造年代は4世紀末~5世紀初頭と考えられている。被葬者については、この地に館を持っていた、古代豪族大伴金村とその子の墓との伝承を持つが、大伴金村は6世紀前半の人物であり古墳との年代が合致しない

 現在一基だけであるが、明治時代までは「小帝塚」「大帝塚」と大小二つの古墳が存在した。大帝塚の方は、現在の帝塚山学院の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している。

             googleマップ           不明

                                  

                         帝塚山古墳( 大阪市住吉区)             古墳時代の海岸線

                                                     

 7.筑紫磐井戦争のその後

 日本書紀によると、筑紫磐井戦争(527年)を『筑紫磐井は、火(熊本県)、豊(福岡県東部および大分県)の国を勢力下におさめ』とあり、火国は磐井側に加担したように記されている。しかし実際にはこの戦いの後、火君一族はそれまで磐井の領域であった、糸島半島唐津を、南は葦北南部の出水地方(北薩地方)に進出し、逆に勢力範囲を拡大させている。

 このような火君の不可解な行動も、火君が実際には磐井に加担したものの、大和政権の中枢部で最も有力な大伴氏に、葦北の地を献上することで罪を問われることなく、逆に勢力を拡大させた考えられる。そして大伴氏を後ろ盾にすることにより、それまでの筑紫に替わり九州でナンバー1の勢力となった。

 このような大伴氏との関係が大型古墳の野津古墳群の築造を可能にし、古墳の規模が規制されるこの時期、100mを超える前方後円墳が2基が野津古墳群内に存在する。これに対し、同じ様に筑紫磐井に加担したとされる豊国は、首長墓の破壊や見るべき前方後円墳の築造が停止するなど、この地域に対する戦後の対応は過酷なものであった事がうかがえる。

 火国のこのような大伴氏との関係も、朝鮮半島伽耶の一部であった任那四県を、百済に割譲したことにより、大伴金村が失脚することになる。それに伴い、火君も中央豪族との関係を絶たれ、この事が野津古墳群の巨大古墳の停止に繋がるのである。

 これほどの古墳群であれば、その築造には200年はかかると言われるが、実際には50年でできあがり、その後停止しているのはそのためである。このような型前方後円墳の巨大さや短期間での築造は、大和王権中枢部の大伴氏と結びついた、火の君の政治的な力によるものであることを示している。

 現在、野津古墳群は4基の大型前方後円墳で構成されているが、かつては端の城古墳と中の城古墳の間に、小型の前方後円墳である天堤古墳(あまづつみこふん)が存在した。しかしミカン栽培が盛んになると、それに伴い天堤古墳も消滅し、その際に古墳の下から隠していたかの様に、石製品の衣笠が大量に見つかり熊本大学に保管されている。

 また筑紫磐井を盟主とする、石人・石馬に代表される石の文化の南限は、この野津古墳群であり、姫の城古墳からも石製品である、靫(ゆき)2点、衣笠(きぬがさ)の笠部6点、及びその支柱3点が知られている。

  

   ひかわ観光ナビ      筆謝撮影       ウキペディア

         

 野津古墳群(航空写真)   姫の城古墳出土の石製品(蓋笠支柱と蓋笠)

 

8.朝鮮半島に対する葦北の地勢的位置

 当時の葦北は現在と異なり、八代北部の龍峯山麓から、水俣そして天草の一部をも含む広範囲な地域を指していた。昔から地理的に朝鮮半島や大陸への門戸として知られ、葦北(八代)を手中の収めることにより、直接朝鮮半島へ渡海することができた。

 そして6世紀始め、大伴氏は積極的に朝鮮半島に対する外交を推し進め、その際に半島に渡海するための各地の港(津)を把握し、軍事力強化のために諸豪族との関係に力を注いでいた。その事が難波津が『大伴の御津』と万葉集に詠われ、外交における主要港を複数支配し、その一環として磐井戦争後(527年)、火国南部地域の葦北が大伴氏の支配地に置かれる事になったのである。

 この時期、朝鮮半島との外交が大和王権の最大の関心事であり、日本書紀の継体紀などは、そのほとんどが彼の業績ではなく、朝鮮半島情勢で埋まっており、緊迫した状況であったのであろう。

 このような対外的な窓口であった八代の地には、中国大陸から渡来してきという河童伝説が伝わる。河童にまつわる昔話は、全国津々浦々にのこり広く親しまれているが、この河童、実は中国から八代にやって来て、やがて全国に広まった。
 この八代の河童は、仁徳天皇の時代に中国の黄河にいた河童が、一族郎党引き連れ八代にやって来て球磨川に住み着く様になった。一族は繁栄してその数が九千匹になったので、その頭を『九千坊』と呼ぶようになったという。

 この河童の力を示すものとして、球磨川は元々八代平野に出てくると、そのまま北に流れていたが、それ妙見宮辺りから南に流れるように、付け替えたのが渡来してきた河童である。この事を知った加藤清正は、彼らの力を恐れ全ての河童を福岡県の田主丸に移住させた。そのため今でも八代には田主丸に親戚を持つ者が多いっという。

 この様な中国大陸と八代往来は、古代より幾度となく繰り返され、律令時代になっても八代海へ渡来船が現れたことが太宰府に報告されている。

 また前川に架かる前川橋周辺(本町三丁目)は徳渕津と呼ばれる港があった場所で、中世以来、八代の海の玄関として大変栄え、徳渕津に北隣に位置する八代城も、この港を意識して築城されたという。この前川橋のたもとに、かつて徳渕津に用いられていた、二個の大石を組み合わせた河童渡来の碑が設置されている。

                       筆者撮影 (二枚とも)                    

                                       

               河童像(徳渕ノ津跡)        河童渡来の碑  

 

9.葦北を故郷とする達率日羅

 朝鮮半島政策を推し進めるうえで、葦北を領有する大和王権中枢部の大伴氏の存在は、百済にとってもその影響は大きく、その結果として日羅を高官に押し上げ、百済王朝に深く食い込ませることができたのであろう。なお大伴とは『伴=トモ』を率いるトップという意味で、軍事集団の久米氏をや靫負(ゆげい)氏なのど軍事に関わる集団を統括していた。
 そして百済の高官であった日羅は、ここ葦北が故郷である。しかし達率という官位は第二の位であり、百済の王族にしか許されず、そう考えると日羅自身は、葦北の国造であった阿利斯登が、大伴金村と共に渡海し朝鮮半島へ出兵した際に、地元との地女性との間にできた子供であったことが考えられる。

 また、彼の父親である葦北国造、阿利斯登(ありしと)も、個人名ではなく、アリ(=大)、シチ(=首長)であり、アリシトとは大首長の意であることから、火葦北国造は半島との交流の中において阿利斯登を名乗っていたことになり、その活動は大伴氏の動員による一時的なものではなく、日常的に半島と密接な関与があったことを推察できるのである。Wikipediaより)

 その日羅の墓が、八代市坂本町百済来下の百済地蔵堂に存在する。地蔵堂の本尊の菩薩像は、敏達天皇元年(572年)日羅が百済の国より父、葦北国造、阿利斯登に贈ったものと伝えられる。また暗殺された日羅の遺体は、小郡(大阪市)に埋葬されたが、その後葦北に移され、それが地蔵堂境内にある『日羅の墓』と伝えている。
 訪れるには八代から国道219号線球磨川沿いに百済来を目指すと、途中から国道を右折し、山中の集中豪雨の工事区間を通らねばならず、想像もしなかった悪路を走行しなければなない。そのためこのコースはやめたがよく、それより八代から国道3号線を海岸沿いに南下し、日奈久温泉街を通過してさらに南下すると、高架橋の高速道路と三号線が交差する所に信号がある(坂本方面の矢印あり)ので、そこを左折して山中に入るコースがはるかに楽である。 

          筆者撮影                 googleマップ

                                  

         百済地蔵堂             菩薩像

10.大伴氏に残されていた葦北の記憶
 筑紫国磐井の乱により、火国南部の芦北地域が中央貴族の大伴氏の私有となったが、時代が下がって律令時代になっても大伴氏一族のなかに、葦北の人々に対する記憶が残されていた。
 『続日本紀宝亀元年の記事に、護景雲元年(768年)肥後国葦北郡益城群より白い亀が献上されたことにより、めでたいことの兆(しる)として、護景雲四年から宝亀元年に改められた。そして献上した二人には多くの褒美を賜り、また国司である肥後守の大伴宿禰駿河麻呂以下、白い亀が献上に関わった国司や郡司たちも位が一階進められる恩賞にあずかっている。 

 このときの白亀献上以前より、肥後の芦北、八代、益城から、白い雀や白亀やが献上されるなど、相次いでめでたい前兆が続き、それに伴い位や免税あるいは褒美が与えられている。
 これは大伴氏が、肥後国司やそれに関する任に当たった時期であり、かつて筑紫磐井との戦い(527年)において、大伴氏の部民となった地域であったことから、かつて大伴氏を経済的に支えてくれた、これらの地域の人々に対する穏に報いものであり、律令時代になっても彼ら事を忘れていなかったのである。
 そして葦北国造家歴代の墳墓が、九州高速道路のインター近くに展開する、八代平野最大の前方後円墳であったと考えられる茶臼山古墳や人物埴輪が出土した大塚古墳、現況としては最大(77m)の高取上の山古墳、をはじめとした五基の前方後円墳群が展開する。
  これまで、これらの古墳群は、氷川右岸に展開する野津古墳群を残した火の君が、南下して築いたものと考えられてきたが、近年の研究結果により両古墳群の築造時期が重なる部分もあることが分かり、葦北国造家のものと考えらる様になった。

              筆者撮影 (二枚とも) 

      

      大塚古墳(案内板)             臼塚古墳(八代平野最大)
 

  あとがき                         
 火の君のものとされる、氷川右岸台地に展開する四基の大型古墳(野津古墳群)を目の当たりにすると、火の国の持つ力の大きさに圧倒されてしまう。しかし火君が巨大古墳に似合うだけの力を有していたかというと、甚だ心細くなるのである。

 たしかに野津古墳群から臨む八代平野は広大であるが、これらの平野の多くは中世以来の干拓によるもので、当時の海岸線は現在の国道3号線辺りで在った。従って農業生産以外の、海運をはじめとした海上交易に求めることになるが、その制海権有明海を中心とた限られた地域であり、野津古墳の巨大さに比べるとその実力はやはり力不足の感はぬぐえない。
 ではその力はどこから来ているのであろうか。この時期、朝鮮半島との外交が大和王権の最大の関心事であり、このような時期、積極的に朝鮮半島に対する外交を推し進めたのが大伴氏であった。その際に半島に渡海するための港(津)を把握し、軍事力強化のために諸豪族との関係を強化する事に力を注いでいた。
 その一環として 、磐井戦争後(527年)火国南部地域の葦北が大伴氏の支配地に置かれる事になったのである。この時に火の君と大伴氏がつながり、その事は馬門石石棺が大伴氏や継体大王の陵墓に納められていることが示している。なお大伴氏と継体大王は一心同体とも言える様な関係であり、大伴氏と繋がった火の君は政治的に大きな力を持つようになったのである。
   そう考えると、大伴氏との関係が、野津大地に4基の巨大前方後円墳を出現させ、しかもその築造に要した期間が50年と短期間であることも、大和王権中枢部の大伴氏と結びついた、火の君の政治的な力によるものであることを示している。