播磨国風土記「継潮(つぎのみなと)」

        

    

       植山古墳東石室馬門石製家形石棺

 

  熊本県に暮らす者にとって、ここが嘗て「火(肥)国」と呼ばれた地域であった事は誰でも知っているものの、火の国がどこで発生しどの様な勢力であったのか等、具体的な話になると依然としてよくわかっておらず推測やイメージの域を出ない。
 そこで少しでも火国の実態に近づくことができればと考え、風土記の中からこれまであまり知られていなかった記事を元に、当時の火国や火の君の置かれた状況について見いこう。
 
1. 播磨風土記に記された火の君の祖先伝承
 近年、『播磨国風土記』のみに記述された、『継潮(つぎのみなと)』の地名説話の中に、火の君の祖先伝承に関する記述が見られる。

 その風土記の地名説話とは、『昔、この国である女が死んだ。その時、筑紫の国(九州)の火の君らの祖先(名はわからない)がやってくると生き返った。そこでただちに妻とした。だから命を継いだので継の潮と名づけたのである。』(風土記 日本古典文学全集5 小学館書)より。
 ところが、風土記の中でのみ知られていた、継潮と見られる遺跡が姫路市継の「登リ田遺跡」で見つかった。兵庫県の説明によると、「登リ田遺跡」の周辺は古代においては播磨国飾磨郡美濃里に含まれ、播磨国風土記に美濃里の地名である継潮とあることから、このあたりに港が置かれていたことが分かった。
  遺跡周辺は現在内陸部になっているが、瀬戸内海にほど近い川沿いの広範囲な湿地帯であり、「継(つぎ)」という地名が今に残され、そこで今回の飛鳥時代の役所に関係するとみられる建物跡などが発見された。そして、このような発掘調査の結果から、海上交通の大動脈ともいえる瀬戸内海航路において、後の姫路市内に設置された播磨国分寺跡にも近く、が大がかりな港であったことが分かった。
 しかし、今回の発掘で継潮の位置や規模については分かったものの、風土記の地名説話記事を読んだだけでは何を意味しているのか全く理解し難く、これに対する一般的な解釈として、古代においては人々の動きが活発であった事を示すものであると理解されている。
 ただ風土記に『筑紫の国(九州)の火の君らの祖先』とあるからには、風土記が編纂された奈良時代においても、火の君一族は存続していた事が分かる。しかし、なぜ火の君らの祖先が継潮にいるのか、そして彼が来ると生き返ったのはどう言うことなのか、風土記特有の表現方法にしても、考えれば考えるほど不思議な話である。

 

                                   

                             継潮の位置            登リ田遺跡

2.火の君の船が入港していた理由
 その前に、火の君について分かっていることとして、その範囲は現在の熊本県佐賀県それに長崎県壱岐対馬を除く)を加えた広範囲な地域を領域とし、また有明海一帯を勢力範囲とする海人族の代表的な豪族が火の君であった。その本拠地は八代郡肥伊郷、現在の八代郡氷川町にあったとされ、6世紀前半に築かれた、氷川右岸台地に展開する4基の大型前方後円墳群がその事を示している。
 このような有明海一帯に制海権をもつ火の君が、なぜ遠く離れた近畿地方の継潮に入港していたのだろうか。この事について近年、5世紀後半~6世紀初めにかけて築造された、近畿地方の大王墓をはじめとした有力者の古墳に、肥後国内で産出する阿蘇ピンク石を含めた阿蘇凝灰岩を使った、ひつぎ(石棺)が納められていることが分かった。
 その数も九州外だけでも24例に上るといい、瀬戸内海航路を石棺を運ぶ火国の船が頻繁に行き来していたのである。従って、海上輸送の大動脈ともいえる瀬戸内海航路を、近畿地方に石棺を海上輸送する途中の中継地として、継潮に入港したとしても不思議はない。
 これまで、これらの石棺は肥後から遙々運んできたとは考えもつかず、兵庫県加古川下流右岸に産する竜山石と考えられてきた。ところが宇土市教育委員会の方で大阪府高槻市の今城塚古墳を訪れた際、足下の石棺の破片が阿蘇ピンク石であることに気付き、このとき始めて肥後から運ばれてきた石棺であることが分かったのである。
 この石棺は蓋と身を合わせると7トンにも達し、肥後から近畿までの数百㎞をどのようにして運んだのであろうか大いに気になるところである。海上輸送するには波静かな瀬戸内海だけではなく、潮の流れの速い玄界灘や難所の関門海峡を通過せねばならなかった。そのため現在のような動力船のなかった時代、このような長距離の航海は危険を伴う大変な航海であったことは容易に想像されるが、当時の運搬方法については全く分かっていない。                   

                                 

          港内でのカッター訓練             実験航海ルート

3.古代船による実験航海
 そこで、2005年7月に実際に阿蘇ピンク石を使った石棺を、当時と同じように古代船を使って、宇土マリーナから860㎞離れた大阪南港までを航海する「大王ひつぎ実験航海」と銘打った公開実験が宇土市の方で実施された。
 航海には伴走の現代船の支援を受けながら、石棺の蓋と身を載せたイカダ台船を古代船に引かせるというもので、地元でも話題となりTVで出航の様子を放映していた。記憶が正しければ、船出したものの早崎の瀬戸の流れが速く口之津港に近づけず、伴走船に曳航され入港することができたのを見て、この先の航海が案じられた。

 しかしこの件について、ネット上の記事では予定より早く入港できた等、記憶と異なる記事となっている。また古代船の漕ぎ手についても、海員学校水産大学校など屈強なカッター部の学生が、交代で入れ替わり航海を続けてきたが、それでも伴走船の出番が必要な難航海であった。
 この様子から。航海は力により闇雲に波頭を乗り越えるのではなく、風や潮の流れといった自然のサイクルを利用しその中で船を進めたのであり、積み荷が石棺となればなおさらであろう。このような航海には長い間の経験と技術が求められ、船頭は潮目の変化を見逃さず潮から潮へと船を乗り移らせる技術や、風を読み天候の変化を予測しなればならなかった。

 そのため港での潮待ちや風待ちは、次の港に向かうための休養期間でもあり、このように船乗りが待機する港を継潮(継ぎの港)と呼び、バトンを繋ぐように寄港地を繋ぎながら石棺を移動させていった。その事を港名の「継」の文字がよく表している。

 話は変わるが、実験航海の後の古代船海王や馬門石石棺の扱いが、雨ざらしに近い状態で宇土マリーナの端に置かれ、あまりにぞんざいな扱いとなっているのを見ると心が痛む。せっかく時間と高額な金をかけて製作し、実際に航海に使用した事を考えると、後の世代に伝えるべき歴史的な資料であり、資料館のような室内での保存を強く希望する。

         

       馬門石石棺の蓋        宇土半島周辺地図

 4.石棺を運んだ理由とは
  このような火国から大和盆地への石棺の納入は、この時期、火の君と大和の豪族やそれに直接繋がる大王(天皇)が親しい関係にあった事を示すものであり、この馬門石よる石棺は地元の古墳には使用されず、近畿地方の大王家や近畿の有力豪族のみみ納められる献上品であった。なお、この石棺が見つかった今城塚古墳は、6世紀前半では列島内で最大級であり、継体大王の真陵と考えられている。
 ところで、このように大変な航海をしてまで、石棺を近畿地方まで運んだのは何故であろうか。まず考えられるのが、当時の船の大きさを考えるなら、長さ2.6m、総重量は6.7トンもの石棺は、行き交う船や停泊地においてその存在は目立ち、石棺の行き先が大王家となれば、火の君にとっても他の豪族に対して箔がつくというものである。またその事は大王家にとっても、遙か肥後の地から瀬戸内の各港を石棺を積んで通過することは、それらの地域に大王家の威光を知らしめることにもなった。 
 また大王家の古墳に用いられる石棺には、時代により使用される石棺に決まりがあり、加古川市の竜山石、二上山二上山白石それに熊本県阿蘇凝灰岩の3種類であったが、その使用も大王家やその近親者、あるいは一部の有力豪族のみに許された。
 また石棺の産地には時代により変化し、倭の五王(5世紀)と呼ばれる時代の有力古墳には、竜山石を使った長持形家形石棺が使用され、仁徳、応神と続く歴代の大王陵にも同様な石棺の使用が確実視されている。
 そして、火国から近畿地方に運ばれた石棺には、宇土市馬門地区の阿蘇ピンク石の他に、菊地川下流域(玉名市)や氷川下流域で産出する阿蘇凝灰岩が用いられた。中でも最初に近畿に運ばれたのは、菊池川下流域から運ばれた石棺であったが、 継体大王の時代を中心に(日本書紀によると(507年~531年頃)馬門石石棺が使用されるようになった。どこの産地の棺を用いるかは、大王の交替や政変に伴い大和政権を構成する、有力豪族のネットワークの変化などが要因となり、石棺に使用する石材が変わったようである。

※ 各豪族の勢力範囲については諸説があり定かでなく、被葬者の豪族氏は古墳が存在する現在の地域名から判断する。
 ※ 市野山古墳は允恭大王(5世紀中頃)陵とされ、その陪冢の長持山古墳と唐櫃山古墳  とは半世紀の年代差がある。また長持山古墳出土の2基の石棺には年代差がある。  
※ 大阪峯ヶ塚古墳は木梨軽皇子陵との伝承あり。
※  収蔵庫の下置かれている奈良金屋ミロク谷石棺は、馬門石製の家形石棺の蓋石に石仏  を彫り込んだもので、出土古墳は不明であるが三輪山周辺から出土したようである。  

 5.馬門石製家形石棺が示すもの 
 馬門石石棺が大和に運ばれた時期は、推古女帝の初陵(植山古墳)を除けば、主に継体大王が活躍した、5世紀後半~6世紀始めであり、継体はそれまでの王朝と異なり、新たに北陸地方からやってきて即位した新王朝であった。そのため今までとは異なる新たな権威を必要とし、それが大王のひつぎとしての石棺に、竜山石の他に新たに馬門石を加える事であった。
 しかし新たな継体大王の出現は、それまで大王家に王妃を入内していた葛城氏をはじめ、前王朝を支えていた有力豪族にとっても受け入れ難いものであった。そのため継体大王は即位してから20年もの間、大和盆地に入ることができなかったのは、この様な反対勢力が存在した事によるものと考えられている。
 そのため上記一覧表から分かるように、反継体派とみられるこれら豪族の領域には、馬門石による石棺を有する陵墓は見られなず、その主な豪族として平群氏、葛城氏、蘇我氏、といった大和盆地の西側を本拠地とする渡来系の氏族であった。なお1世紀遅れて(7世紀前半)蘇我氏の本拠地(橿原)に築かれた植山古墳の馬門石石棺は、それまで反対勢力であった蘇我氏も推古女帝の時代になると、継体王朝側に加わったためと考えられる。
   このように馬門石石棺は、新たな王朝と各豪族とのネットワークにより、継体大王との関係を示す指標ともいえるものであるが、阿蘇ピンク石による石棺が納められた大和盆地の古墳として、最も多いのは大伴氏の4基であろう。大伴氏は現在の桜井市を中心とした地域を本拠地とし、大和平野南東部を物部と共に大王家を守るように配置されている。

 そして雄略から欽明大王初期頃(5世紀後半~6世紀前半)にかけ、この時期最も活躍した豪族であり、大和政権のトップランナーであった大伴氏と火の君が繋がっていたのである。このように多くの馬門石の石棺は、遙々海路で運んできた火の君との関係の強さを物語るものでもあり、この関係が筑紫磐井戦争において火の君を救うことになる。
 この他に馬門石石棺を有する古墳として、大王家の墓域である古市古墳群内の市野山古墳(允恭大王(5世紀中頃))の陪冢である、長持山古墳と唐櫃山古墳が存在する。この古墳の被葬者は大王の次に続く有力者であり、彼らが火君と繋がっていたと考えられる。しかし奈良市の和珥氏場合、奈良野神古墳は同じ馬門石石棺を副葬していても、継体大王との関係を示す記事は見られない。
 また滋賀甲山古墳と滋賀円山古墳は、継体大王の膝元である滋賀県野洲市である事から、古墳の被葬者は継体大王により朝鮮半島への出兵に、将軍として渡韓した近江毛野臣とその一族の関係者が考えられる。

         

         今城塚古墳         甲山古墳(馬門石石棺)
6.吉備を介して中央豪族と繋がった火の君
  当時は現在のような八代平野は存在せず、従って農業生産にその源を求めることはでず、馬門石製の石棺を大和に海上輸送するなど、海洋交易を生業する海運力が火君にとっての力の根源であった。
  なかでも大王の石棺ともいえる7トンもの馬門石による石棺を、海路遙々大和まで移動させるには、海人族である火の君ならではの操船力が求められ、その姿は瀬戸内航路において人々の目に止まり長く記憶に残ったであろう。その事が播磨風土記の地名説話に、火の君が記される事に繋がったのではなかろうか。
 このような大和との関係は、当時強力な軍船を有する吉備(備中)を介して可能であった。この事を示すものとして、全国4位の墳丘を誇る、岡山市北区の造山古墳(五世紀前半・全長350m)前方部の馬門石石棺や、その陪冢である千足古墳の石室である。
 その石室には肥後型と呼ばれる天草産砂岩による石障(仕切り石)が用いられ、不思議なことにこの陪冢と同じ、千足島(維和島)の名をもち良質な板状のな砂岩を産出する島が、八代市の対岸に存在する。このような共通した墓制は、吉備と火国の間に強い結びつきがあった事を示すものである。
 また宇城市不知火町には、鴨籠古墳(かもここふん)と呼ばれる、巨大な板状の砂岩4枚を組み合わせた長方形石室が遺されている。このような石室は、火国を始めとした中九州や南九州には見られず、九州以外の地域の墓制であるとが考えられている。
 そして、この古墳名に関する伝承として、古墳名の鴨籠から『鴨の子』とすると、『鴨の子の墳墓』と考えるのである。石室内に残されていた石棺が、子供用である事を考えると説得力があり、その石棺は県下で唯一の馬門石によるものである。想像を豊かにすると、鴨とは吉備の王族で軍船を率いて火国へ遠征し、地元の女性との間にできた子供が亡くなり、その子の墳墓が鴨籠古墳と考えるのである。
 このような吉備との関係は、雄略大王により吉備が勢力を失うと、火の君はこれに替わり直接、大王家ないし大和政権中枢の有力豪族につながりを持つことにが可能になったのである。そして海上輸送した石棺が、大和の古墳内に納められるようになると、火君は大和王権から海上輸送に携わる勲(いさお)として一目置かれる存在となった。

 

                               

    馬門石石棺(造山古墳前方部)      鴨籠古墳

7.大伴氏を後ろ盾とした火の君
 ところで大和盆地において、最も多くの馬門石製石棺が納められた古墳は、掲載した『豪族配置図』から分かるように大伴氏である。そして火の君は大和の有力豪族に中でも特にこの時期、朝廷内で最も活躍した大伴氏と関係が深かったと考えられる。
 では何故、火の君は中央豪族の中でも特に大伴氏と関係を持つようになったのであろうか。それまで大和を介しての朝鮮半島との交易であったが、5世紀後半になるとそれぞれの豪族が独自の外交を行うようになり、この時期の古墳からは熊本県の江田船山古墳のように、朝鮮半島で製作された威信財としての品々が出土している。
 この事から考古学者の中には、これらの半島製の宝物を副葬している古墳の被葬者は、朝鮮半島本国から派遣された、分国の指導者と考える学者もいるくらいである。また日本書紀によると、筑紫の君磐井も新羅からの賄賂により、大和に弓引いた事が記され、磐井も独自の外交を行っていたのである。
  そして、このような時期に大伴氏は積極的に朝鮮半島に対する外交を推し進め、その際に半島に渡海するための港(津)を把握し、軍事力強化のために諸豪族との関係を強化しする事に力を注いでいた。
 その事が難波津が『大伴の御津』と万葉集に詠われ、外交における主要港を複数支配しその一環として 、磐井戦争後(527年)火国南部地域の葦北が大伴氏の支配地に置かれる事になったのである。

 即ち、それまで馬門石石棺を通じた大伴氏との関係により、火国の南部にあたり外交上の最前線港である葦北の地を大伴氏献上し、その罪を問われることはなかったのである。この事は、磐井の子の葛子が、博多湾に近く朝鮮半島との交易上重要拠点である糟屋(福岡県粕屋町周辺)の地を、大和政権に献上することにより助命されたように、この時代にあっては、その罪を対価により補うことができたのである。

 日本書紀によると、筑紫磐井戦争(527年)を『筑紫磐井は、火(熊本県)、豊(福岡県東部および大分県)の国を勢力下におさめ』とあり、火国は磐井側に加担したように記されている。しかし実際にはこの戦いの後、火国一族はそれまで磐井の領域であった、糸島半島唐津を、南は葦北の南部にあたる出水地方(北薩地方)に進出し、逆に勢力範囲を拡大させている。
 このような不可解な火の君の行動も、火の君が実際には磐井に加担したものの、大和政権の中枢部で最も有力な大伴氏に、葦北の地を献上することで罪を問われることなく逆に勢力を拡大したと考えられる。そして大伴氏を後ろ盾にすることにより、それまでの筑紫に替わり九州でナンバー1の勢力となった。

 これに対し、同じ様に筑紫磐井に加担したとされる豊国は、首長墓の破壊や見るべき前方後円墳の築造が停止するなど、この地域に対する戦後の対応は過酷なものであった。

 このような大伴氏との関係が野津古墳群の築造を可能にし、古墳の規模が規制されるこの時期、100mを超える前方後円墳は九州内で5基だけで、その内の2基が野津古墳群内に存在する。またこれだけの古墳群であれば、その築造には200年はかかると言われるが実際には50年でできあがっている。このような型前方後円墳の巨大さや短期間での築造は、大和王権中枢部の大伴氏と結びついた、火の君の政治的な力によるものであることを示している。

            

      中ノ城古墳(野津古墳群)    石人石馬(野津古墳群)

 8.葦北を故郷とする達率日羅

 当時の葦北は現在と異なり、八代の北部の氷川町近くから、水俣そして天草の一部を含む広範囲な地域を指し、地理的に朝鮮半島との海上交通の門戸でもあった。そして葦北といえば、敏達天皇の要請により来日し、朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した、倭系百済官僚の日羅が有名であるが、彼はここ葦北が故郷でもある。

 また日羅の父親である葦北国造、阿利斯登(ありしと)は、朝鮮半島大伴金村と共に渡海した九州出身の武人であった。

 そして、昔から朝鮮半島や大陸への門戸として知られる、葦北(八代)を手中の収めることにより、直接朝鮮半島へ渡海することができ、半島での政策を有利に進めることができた。このことは、葦北を故郷とする日羅は百済の高官であった事でも分かる。

 即ち、朝鮮半島政策を推し進めるうえで、葦北を領有する大和王権中枢部の大伴氏は、百済にとってもその影響は大きく、その結果として日羅を高官に押し上げ、百済王朝に深く食い込ませることができたのであろう。なお大伴とは『伴=トモ』を率いるトップという意味で、軍事集団の久米氏をや靫負(ゆげい)氏なのど軍事に関わる集団を統括していた。

 それにしても、達率という官位は第二の位であり百済の王族にしか許されず、そう考えると日羅自身は、葦北の国造であった阿利斯登が朝鮮半島へ出兵した際に、地元との地女性との間にできた子供であったことが考えられる。

 その日羅の墓が、八代市坂本町百済来下の百済地蔵堂に存在する。地蔵堂の本尊の菩薩像は、敏達天皇元年(572年)日羅が百済の国より父、葦北国造、阿利斯登に贈ったものと伝えられる。また暗殺された日羅の遺体は、小郡(大阪市)に埋葬されたが、その後葦北に移され、それが地蔵堂境内にある『日羅の墓』と伝えている。

 訪れるには八代から国道219号線球磨川沿いに百済来を目指すと、途中から国道を離れ山道の想像もしなかった悪路を走行しなければならず、また遠回りとなりこのコースはやめたがよい。それより八代から国道3号線を海沿いに南下し、日奈久温泉街を通過し、二見郵便局の前を通って山中に入るコースがはるかに楽である。

             

           百済地蔵堂        百済地蔵菩薩

9.大伴氏に残されていた葦北の記憶
 そして葦北国造家歴代の墳墓が、九州高速道路のインター近くに展開する、八代平野最大の前方後円墳であったと考えられる茶臼山古墳や人物埴輪が出土した大塚古墳、現況としては最大(77m)の高取上の山古墳、をはじめとした五基の前方後円墳群が展開する。
  これまで、これら葦北国造家の古墳群は、氷川右岸に展開する野津古墳群を残した火の君が南下して築いたものと考えられてきたが、近年の研究結果により両古墳群の築造時期が重な部分もあることがわかり、葦北国造家のものと考えらる様になった。

 このような前方後円墳に対し、八代の龍峯山山麓には『鬼の岩屋』と呼ばれる巨石を組み合わせた、6世紀後半~7世紀の築造と考えられている古墳が残されている。かつては80基以上が存在していたようであるが、現在は龍峯、20数個が残されている程度である。
 この黒褐色の巨石は、地元で産出せず、遠く水俣や鹿児島県出水から運ばれてきもので、大きな石材については馬門石石棺を凌駕し、馬門石が凝灰岩であるのに対し、鬼の岩屋古墳はマグマが冷え固まった安山岩で重量も大きなものである。
 このような巨石の運搬には、かつて火国から大和まで石棺を運んだ時の経験が生かされ、八代まで移動されることを可能にしたのであろう。この事から、実際に岩屋古墳の巨石を海路八代まで運んだのは葦北地域の海人族であり、大和まで馬門石石棺の運搬に関わったのが、彼らよりの前の世代の葦北の人々ではなかろうか。
 そう考えると、鬼の岩屋古墳の被葬者とは、かつて馬門石石棺を大和まで運んだ海人の後裔が、葦北国造の大伴氏の許しを得て築造したものであり、八代海を領域とする船頭が残したものではなかろうか。

 そして葦北の人々と大伴氏の関係は、時代が下っても大伴氏一族の記憶の内に残されていた。神護景雲元年(768年)、肥後国葦北郡から白い亀が朝廷に献上され、3年後にも同じ葦北郡益城郡の二箇所から白亀が献上された事が、奈良時代元号である『宝亀』への契機になったという。
 このときの白亀献上は、国司である肥後守・大伴益立により行われたが、それ以前より肥後の芦北、八代、益城から、白い雀や白亀やが献上されるなど、相次いでめでたい前兆が続き、それに伴い位や免税あるいは褒美が与えられている。その後もめでたい兆候が続き八代から再び白亀が献上され褒美が与えられている。
 これは大伴氏が肥後国司やそれに関する任に当たった時期であり、かつて筑紫磐井との戦い(527年)において、大伴氏の部民となった地域であったことから、かつて大伴氏を経済的に支えてくれた、これらの地域の人々に対する穏に報いものであり、律令時代になっても彼ら事を忘れていなかったのである。

 

            

       鬼の岩屋古墳(石灰岩)     鬼の岩屋古墳(水俣石)
    あとがき                                        
 ところで火国から近畿地域に、阿蘇凝灰岩による石棺を最初に運んだのは一体誰であろうか。石棺の製作地には、宇土半島の馬門石だけではなく、他にも菊池川流域の玉名や氷川流域があった。その中でも最初に近畿地方に運ばれたのが、江田船山古墳(5世紀後半~6世紀初)から菊池川を隔てた、溝上地区の阿蘇凝灰岩で製作された石棺が、菊池川の水運を利用して運ばれた。
  そして継体大王威信財といえば、『捩じり環頭太刀』や金銅製冠(広帯二山式冠帽)がよく知られ、継体大王の時代を中心に各地で出土し、これらの威信財を副葬する古墳の分布域が継体大王の勢力範囲を示している。
 この継体大王威信財である広帯二山式冠帽が、江田船山古墳からも出土していることから、継体の時代になっても引き続き地方長官として菊池川流域に君臨していたのである。
 その後も清原台地上に、船山古墳に続く歴代首長墓の清原古墳群(前方後円墳3基、円墳1基)が築かれていき歴史時代へ繋がっていくのである。この時期の中心地は、大保坊古墳や永案寺古墳など、多くの後期古墳が残されている菊池川右岸の元玉名であった。
 その後、歴史書が記されるようになっていくと、菊池川流域一帯を経済基盤とした日置氏は、大和朝廷への働きかけを強め、有明海でとれる『グチ』を朝廷の儀式に定着させ、また日置氏の氏神である疋野神社を式内社に引き上げるなど、その動きには目を見張るものがある。このような大和朝廷に対する積極的活動を見ると、最初に近畿に石棺を運んだのは日置氏と考えられる。
 そして奈良時代になると、玉名郡の郡司であった日置氏が力を注ぎ、疋野神社周辺の立願寺(疋野神社の神護寺の名)に国衙が置かれると、それに伴い人々も元玉名から移動していった。このような日置氏も太宰府を後ろ盾とする、菊池氏の台頭により勢力を失い歴史の中に消えていった。
        

          

      江田船山古墳     金銅製冠(継体天皇の威信財)  
         


                            

         金銅製冠(江田船山古墳出土)